A play without performers in which the gaze of the audience evokes the absent “you”

Drawing on various elements for his work, from living alone to public corporations, rivers, songs, plants, and gardens, Yujiro Sagami here presents a seemingly empty stage. And yet, before long, we start to hear some kind of voice. Sagami takes a story he acquired from living in Yamashina, east Kyoto, and summons it to the theatre. When it fills up the space, we surely will envision something, or someone…

観客のまなざしが、不在の「あなた」を呼び起こす無人劇

70歳以上の伊丹の高齢者たちと制作した『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』(2009年)で鮮烈なデビューを果たし、その後も様々なコミュニティに入り込みながら創作を続け、劇場で「見る」体験の再構築に挑む相模友士郎。一人暮らし、公団、川、歌、植物、庭・・・様々なものを足がかりにしながら今回相模が構想するのは、誰もいない舞台。だが、やがて劇場からは縁遠いらしい、なにかの声が聴こえてくる。相模が山科で実際に生活しながら得た「語り」を劇場に召喚し、劇場空間を満たすとき、わたしたちは何を、そして誰を想像するだろうか。


“LOVE SONGS" is a theater performance with plants which had been abandoned for various reasons.
First we did the project to collect those plants from neighborhood of the theater and researched about the district.
We met some people who has to abandon his plants because his old mother need an extra care, or a person who couldn’t resist the growth of plants because of her childhood traumatic episode.

The most unique point of this performance is there is no human on stage, otherwise there are plants on the stage which are abandoned by the resident near by, and a small realistic miniature room which has furniture and lights inside of it is settled among the audience.
From this room, a quiet sound of living life like washing dishes or walking around the room are come out.
Looking at this room with the sound and plants on the stage, you see the continuous changing of the lighting. It also compose the unique “time” of the stage.
We deal with the matter of what is “theater” and how each audience can be “one person” as sitting the seat of the theater, not becoming a group.

『LOVE SONGS』は植物による無人の演劇作品です。
出演する植物たちは、劇場周辺から集められた様々な理由により手放さざるを得なくなった植物であり、幼少期のトラウマのために、自身の部屋に自然と成長するものがあることに耐えきれず手放すことにした人や、同居する母親が寝たきりになり、その母親が育てていた大量の植物を育てきれず、さらに住まいである借家の家を退去する必要に迫られ手放すことにした人など、植物を放棄する理由は様々です。そのようにして放棄された植物たちが無言のまま舞台上に登場します。
植物が置かれた舞台上では朝→昼→夜を思わせる照明の変化が75分かけて3日間繰り返され、舞台と客席の境界に置かれたミニチュアの部屋からは人の生活の時間を思わせる音が極小さい音で絶えず流れています。
そこには観客の体験を統一化するドラマは存在せず、観客はひとりひとりが「わたし」という個的な経験を要請されるでしょう。




VIDEO


PHOTO

『LOVE SONGS』photo:Takuya Matsumi


Pamphlet
(PDF download)


Yujiro Sagami

Born in 1982. A director. Kyoto-based. He began to work on performing arts in 2004, and in collaboration with Itami City residents over 70 years old, he presented “DRAMATHOLOGY” (2009), which was featured at Festival/Tokyo 10 next year. He has collaborated with 17 of Fukui citizens whose ages range from 17-74 in some previous works such as “It used to be there” (2014). He also directed “Takuma Nakahira, Image with a head start” (2011, Festival/Tokyo11), and “about ANGELS” (2012, TPAM in YOKOHAMA2012). In 2015, “about ANGELS” was restaged at TPAM in YOKOHAMA 2015 as collaboration work with Thai Dancer(Kornkarn Rungsawang from Picket Klunchun Dance Company). His latest production is “SUPERIMPOSE” (2016)


植物と演劇をする
相模友士郎

1|山科に引っ越した8月23日は台風の前日で、引っ越した部屋には広い庭があって、庭の奥には細い竹が植わっている。その竹が庭と向かいのアパートとの境界を仕切っている。その竹が強風で右に左に、手前に奥に弾けるようにしなり、テレビ線だか、ネット線だかのライフラインが竹に絡まり引きちぎられそうになっている。危機的だ、と思った。カーテンも家具もテレビもネット回線もない部屋で、窓越しにその光景を見ていた。

2|植物はわたしたちの境界を区切るために植えられる。しかし、植物たちはわたしたちの社会とはまったく無関係な時間の中で存在している。

3|今、このメモを書いている部屋から庭に目をやると、変わらず庭では竹が揺れ、名も知らぬ草木が育ち、枯れている。一方で私の部屋に目をやると書類や本、グラス、カメラ、椅子などが昨日と同じ場所で同じように留まっているが、これらも私によって片付けられ、収まる場所に収められるだろう。

4|庭と部屋。この2つの場所は同一の時間と共に変化し続けているが、庭には人為的なものを無視した植物的な時間の変化が、部屋には私によって動かされる人為的な時間の変化がある。仮に演劇の時間というものが私の部屋に流れるような人為的な時間の変化だとしたら、植物的な時間を演劇で扱うことはどのようにして可能だろうか。

5|時間そのものを見ることはできない。一方でふと庭に目をやると時間の変化に遅れて気づかされることがある。わたしたち人間の生活が時間を忘れることで保たれているとすれば、「植物と演劇をする」とは、植物的な時間を通して時間そのものに触れる試みである。

6|人は眠る。

7|うつむいて歩く女性が、リードに繋がれた犬を連れて横断歩道を渡っていた。犬は怪我をしているようで足を引きずって歩きにくそうにしているが、女性は携帯でも見ているのか、気にも留めず横断歩道を自分の歩調で歩いている。女性の歩調と犬の歩調の違いがピンと張ったリードに現れ、首輪がぎゅーと犬の首に食い込んでいる。横断歩道を渡り終えると女性は数歩歩いた所で立ち止まり、やはり犬には気にも留めずうつむいている。手には携帯はなかった。ただ深刻に何かを考えている様子だった。犬はその女性のそばで同じように立ち止まり自分の体を舐めている。女性と犬は別の時間にいて、張り詰めていたリードはたるんと緩んでいた。

8|固有の経験とは「〈わたし〉という経験」とも言えるものである。

9|〈わたし〉が眠っている時に〈わたし〉は時間に触れることはできない。しかし〈わたし〉が眠っている時に〈あなた〉は起きている。〈わたし〉が眠っている時に触れることのできない時間に〈あなた〉は触れている。〈わたし〉の時間の経験を〈あなた〉が代わって経験している。〈わたし〉が眠る時、〈わたし〉は〈あなた〉へ、時間の経験を受け渡している。そして〈あなた〉が眠る時、〈あなた〉は〈わたし〉へ、時間の経験を受け渡している。この関係は〈わたし〉や〈あなた〉の窺い知ることのない時間で起こっている。この無関係さ。この無関係さによって、結びつくことの叶わない〈あなた〉と〈わたし〉は結びついている。

10|ようやく愛の歌が歌われる。

 


庭と劇場と観客
山田咲 (ドラマトゥルク、植彌加藤造園株式会社 知財管理部長)

私は伝統的な技術で日本庭園の作庭とはぐくみを専門にする京都の古い会社に勤めており、主に庭の利活用に関わっています。この仕事をする者としての視点から、今回の作品について少し書きます。

庭は動かない。どんな庭であれ、地上にあるものは、GPSの示すまさにその位置にあるからその庭なのである。現代の土木技術をもってすれば、3000坪程度の庭なら、庭ごとバラバラに切れ目を入れて、3メートルぐらいの深さからすくい上げてどこかへ持っていって、また合体させて再現することは可能だろうが、だれもやらない。環境が変われば植栽はダメージを受けるし、なにより周辺のランドスケープとの連続性を失った庭は魅力に欠ける。そして意味をなさない。ここからあの山の頂がこのように見えるから、景石はこの向きにこう据えよう、この小径の上にモミジの枝で青々としたトンネルがあったら春にはうれしいから、南側に高木を植えてその影で枝をこちらに伸ばさせよう、子供のころに田舎で聞いたせせらぎを、ここにある小川と重ね合わせて響かせよう、という具合に庭はできていく。そして数百年の時間がたち、適切な管理によって作庭時の意図と自然の遷移が分かちがたく結びつき「その場所」としての特徴が最大限に引き出される。一歩あるくごとに切れ目なく充実した景色があふれ続ける庭は、見る側にもその場所の唯一性を引き受けることを要請してくる。だから、人が庭を見ているときは、ひとりである。なぜなら、「その場所」からその庭を見ているのは、あなたしかいないからだ。孤独だと言っているのではない。文字通り、その場所にはあなたしかいない、という意味だ。1メートル横にずれればまた違う庭との関わりが生まれる。友達同士でにぎやかに庭を訪れて、しばらくすると縁側に数人並んで座ったまま黙って庭を眺めている人々を仕事中よく目にするが、彼らは腰を下ろした数十センチの違いをそれぞれに受け止め、ひとりの状態にあるのだろう。それぞれの庭が、それぞれの体が今ある位置から、別々なものとして把握されている。縁側にはいつも「ひとり」の人が何人も並んでいる。
もう一つ、人をひとりにする要素が庭にはある。いつかここでこの庭を見ていただれかと全く同じ場所で、今、この庭を見ているのはわたししかいない、という要素だ。日の傾きは刻一刻と変化し、樹木は風に揺れ影は形を変え、水は絶えず流れ続ける。すべてが相対的に関係しあって成り立っているこの空間では、見ている人もその一部に取り込まれる。いつかここに座っていただれかも時間の隔たりを越えて、今ここでみているわたしと等価な存在になる。その空間の中でかつて経験された過去が、わたしに流れ込むほど、隣に座って庭を眺めている人との隔たりが際立つ。
この庭が要請してくるひとり感を、劇場で上演を見ることと比べると、面白い。劇場で上演を見ることは、基本的にはA-1番の席でもJ-45番の席でも、程度の差こそあれ質的には同じ一つの上演を受け取る、とされている。J-45の席にかつて誰かが今の自分と同じように座っていてある時間を経験したかもしれない、といった想像力は上演を見るときには、普通あまり必要とされない。また、J-45とJ-46からの見え具合の違いを議論することにも、普通あまり意味がない。劇場は地球上に遍在し、観客は集団として同質である。
今回の作品の制作過程は、劇場を庭化する過程に見える。もっといえば劇場の観客を庭にいる「ひとり」化させる過程、ともいえると思う。
劇場に自ら来ることができない人を上演によって不在のまま劇場に呼ぶ作品をやる、しかしプロセニアムの構造はそのまま使う、と制作の初期段階に相模さんから言われた。劇場という方向性がはっきりしている装置の中で、どうやるか考えた。そうこうしているうちに相模さん自身が今回上演する劇場の近所に引っ越してきて、劇場のある地域を自分の生活の場所として引き受けるということをし始めた。近所を歩き回ってリサーチするうちに、場所との密接さを体現する植物という存在に着目しはじめた。他方で、一日の陽光の変化が照明の重要なコンセプトとなり、音響は東部文化会館のホールの建物がきしる音などのまさにそこでしか聞こえないうつろいの中での物音を微細に取り込む方向性を得た。劇場の隣の公園に落ちていた3メートルほどの折れ枝を拾ってきて舞台にのせて照明実験し、これからその結果を受けて、捨てられて元あった場所から切り離された植木鉢に入っている植物を近所からもらってきて、もう一度舞台上に設置するところだ。置かれた植木たちはその来歴を引きずったまま照明や音響と相対的な関係を改めて持ち、舞台上にある場所を獲得するだろう。そこでは時間のありようを限定する人間の身体は不在のまま、音源からのわずかな距離の差で聞こえ方が変わるだろう物音(音響)と、絶えず変化する光(照明)の中で、J-45とJ-46から見られる植木はひとつの別々な植木になる。ならんで座る観客には別々の時が流れ、かつてその席に座って前を見ていた人がいたことが、見ているわたしに重なってくる。そして上演はあなたと呼びかけてくる不在のだれかに対する、観客それぞれのLOVE SONGSとなるのだろう。
ところで植物は越境してくる。庭では徹底的に人間によって管理された植物が場所づくりに貢献しているが、管理下を離れモンスター化した捨てられた植木たちが上演にどうかかわってくるかは、これから見ていく。

2018年12月15日


受信機としての人間
細馬宏通(ドラマトゥルク、滋賀県立大学教授)

 相模友士郎さんが2011年に構成・演出した「Dramathology」は、なんとも風変わりな劇だった。そもそもあれは劇だったのだろうか。出演者は全員七十歳以上のお年寄り。出演者は自身の過去の経験をノンフィクションで語るのだが、その話にはこれといってドラマチックなところや泣かせどころはない。なんというか、たまたまある話を思いついた人が、ある話を淡々と語っているような奇妙な時間だったのだ。そして、ときにはAさんの話とBさんの話が入れ替わったりする。自分のことを話しているのに自分のことではないような語り。まるで、人が、自分の感情を劇的に表現するかわりに、ことばを受信する「からだ」になってしまったかのような感じだった。ことばを発しながら、ちょっと揺れたり、歩いたりする受信機。
 その相模さんが新しい劇を作るという。夏のはじめにその話をきいたときは、山科の文化会館で上演されるということだけが決まっていて、まだそれがどういう内容かはわからなかった。しかも演劇を作った経験のないわたしにドラマトゥルクをせよとのことだった。わたしが普段やっているのは、人と人とがことばやからだを使ってやりとりをしているところに出かけていって、それを観察・分析するという研究である。そんなわたしに劇についてあれこれ考えたり構成や演出にもの申すことができるのだろうか。そんなわたしの不安をよそに、相模さんはとりあえず山科に住んでみる、とのんびりしたことを言う。
 相模さんがあまりに動じてないというか、あまり劇を作るということに対して貪欲な態度でないのを見るうちに、これはむしろこの相模さんの態度に沿ったほうがおもしろいのではないかという気がしてきた。ドラマトゥルクとしての判断ではない。あくまで研究者の勘である。フィールドワークに出かけて観察をするとき、こちらからあれこれ聞き出そうとすると、結局こちらがあらかじめ思っていたことや考えていたことを確かめることになってしまう。思いがけないこと、いままで考えもしなかったことに出会うには、ゆっくり待ったほうがよい。
 山科に住み始めた相模さんの報告はのんびりしたものだった。東部文化会館のコーヒーショップでマスターにきいた話。住み始めた庭をぼうっと眺めていると、どこからか篳篥(ひちりき)の音がきこえてきた話。台風のとき、その庭に生えていた竹の先が、隣家とこちらを交互になでるようにわさわさと揺れていた話。そういう話をきいているうちに、相模さんが、なんだか昔見た「Dramathology」の出演者に見えてきた。実は、相模さん自身が、受信機なのではないか。そしてわたしの役回りは、相模さんが受信機であることにつきあうことではないか。
 かくして、わたしは相模さんが何を受信しているのかを見守るという、ドラマトゥルクというよりは研究者、もしくはただの傍観者のような態度でこの劇に関わるようになった。そのうちに、この劇は無人劇であること、そして舞台には植物が置かれること、それはおそらく、世界が明るくなって暗くなること、すなわち一日の時間についての劇となることが、ゆっくりと輪郭を帯びるように固まっていったのだが、これは相模さんのからだに徐々にわいてきた考えで、わたしは折りに触れその考えにあいづちを打っていたに過ぎない。
 ただ一つ、わたしが積極的に提案したのは、このパンフレットに収められた、誰かのある一日についての文章のことである。この劇が、一日という時間について何かを感じる劇であるならば、そこに、誰かの一日、誰かがこの場所に来てこの場所から去って行く時間を補助線として引いておくとよいのではないか。そこで、地域ドラマトゥルクのみなさんと一緒に、文化会館に来館された方に簡単なインタビューをして、その日にあったことを語っていただいた。できるだけ、ご本人が語った順序と語り口で、物語性のあるなしにかかわらず写し取るように。つまり、劇を作るというよりは、わたしたちもまた相模さんのように、誰かの一日を受信するからだになってみるとよいのではないかと考えたのだ。
 わたしは長らく大学の教員をやっている経験から、教える/教わるという関係に煮詰まったときは、やってみる/真似てみるという関係に移るとしばしば問題が解決することを知っている。知識を伝達しあうよりも、態度を真似あうほうがうまくいく。この劇に関わる者もまた、何かを伝えようとするかわりに、受信機という態度を表してはどうか。そうすれば、観客のからだに、受信機になるという不思議な時間が立ち上がるのではないか。これは、ドラマトゥルクというよりは、教員としての勘である。


Conceived and Directed by Yujiro Sagami
Dramaturge / Hiromichi Hosoma, Saki Yamada
Stage Manager / Masaya Natsume
Lighting / Fumie Takahara
Sound / Bunsho Nishikawa
Production coordinator / Tsubasa Shimizu
Community Dramaturges / Yuka Uehara, Shigenori Fujisawa, Yuki Minagawa


Premiere: January 2019 / Kyoto East Community Hall


ロームシアター京都×京都市文化会館5館連携事業/CIRCULATION KYOTO 劇場編
主催|公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団
(ロームシアター京都、京都市東部文化会館、京都市呉竹文化センター、京都市西文化会館ウエスティ、京都市北文化会館、京都市右京ふれあい文化会館)
京都市
企画製作|ロームシアター京都 助成|一般財団法人地域創造
平成30年度文化庁文化芸術創造拠点形成事業 


Copyright©sagami-endo.com All Rights Reserved.